「女子力」と戦うエッセイ

危ういほど強すぎる感受性との戦い

アーモンドケーキ

最近、文章が書けない病にかかっていた。

先日、私のことをよく知っている人に言われた。「kayaのブログはギリギリセーフでギリギリアウトだ」と。

わからないようでわかる。1つの出来事によって右往左往する心の深い部分をえぐり出して文章にしているのが私のブログなので、人によっては不快にさせてしまうし、人によってはもっと欲しくなる文章なんだそう。

「kayaは危うすぎるほど感受性が強いから、あんな文章が書ける」と言ってもらい、嬉しくもありながら、その危うすぎる感受性を負担に感じていた時だったので「危うすぎる」の表現がごもっとも過ぎて頭が下がった。同じ頃「kayaは感受性が強いから、文章が書ける」とも別の人からも言ってもらった。
 
感受性とは、相手の微妙な表情や動きの変化、心の動きを見逃さない能力のこと。これは子供の頃の環境や育てられ方で身につけるもので、私は周りの顔色ばかり伺う子だったのでこのスキルが極めて高くなった。子供ながらに親に喜んでもらうため、周りに可愛がってもらうために、生きる術として身につけたスキルだ。
 
例えば、私は普段事務所のほぼ真ん中の席で働いているけれど、どこで誰がどんな会話をしているかは常に聞いてほぼ把握している。イヤホンつけて音楽を聞きながら仕事をしている時もあるけれど、それでも聞こえてくるレベルの会話はほぼ聞いていて自分に関係なさそうであればスルーして、関係ありそうであれば仕事しながら話を聞いているので、話しかけられてもすぐに「聞こえてました」と入ることができる。

これはビジネスにおいて非常に有効な能力だけれど、生きる上では神経がすり減るだけの力のように最近思う。「私、今までよくこれで生きてこれたな」と思うくらいに、特に最近、感受性が強くなっていた。
 
それはここ数日…というかもう夏くらいからずっと、人間関係で悩んでいたから。その結果、強すぎる感受性を持て余した私は「心を閉ざす」という道を選んだ。やるべきことを淡々とやる。それ以上の感情は不要だと思い、なるべく何も感じないように感じないようにと生活をしてみた。
 
結果、文章が書けなくなった。書いても面白くなくて全て消したくなるものばかりだった。じゃ、今こうして書くこの記事が面白いかと聞かれてもそれはわからないけれど、リハビリも込めてこれ以上「書かない」という道を選ぶ方が恐怖だと気づいた。
 
この「書けない」という時間を経て、私は自分がまだまだ「書く」という段階においてプロじゃないし、プロ意識も足りないことを自覚したし、だからこそ、もっともっと書く量も書く場も増やしたいと思った。書くことをやめることで、私は人生の楽しみを8割くらい失ってしまいそうだった。
 
生きるために知らず知らずに身につけていた「危ういほど強すぎる感受性」は、今日も私を押しつぶそうとしながらも、こうして「書く」という術を通してギリギリのところで私を私にしてくれる。