「書くこと」を考えるエッセイ

記録が記憶になるための条件

「好きな人と一緒にいて「この歌、俺の好きな歌なんだよね」って言いながら、一緒に片方ずつイヤホンつけて聞いた曲は、その人にとってはすごく大切な曲になると思う。でも、その友達に「この曲めっちゃイイ」ってすすめられて、部屋で1人で聞いたからって同じ感動は得られないと思うんよね。」と教えてもらった話がすごく好きでよく思い出す。
 
昨日、ある女性と話をした。彼女は料理がすごく上手な人。料理に関する話題をしていた時、「私は、料理は食べに来てもらってこそその味を楽しんでもらえるものだと思うんです。自分がレシピをしっかりと伝えられないのであれば、簡単なレシピになった途端に一人歩きを始める不安がある。想定できないものを外に出すのは不安です。」と言っていた。

ステキだと思った。私は自分が生み出すものは1人でも多くの人の目に触れて欲しいと思う気持ちしかないので、「そんな考え方もあるんだな」と思った。「話す」ではなく「書かれた」文章は、常に完成した形で語られるものであり、リアルや生で楽しんでもらうということはまずない。

「リアルの場で楽しんでもらうものだから、情報だけが伝わって行くのは不安」と、そんな視点でものごとを見たことがなかった私はどう話を展開したら良いのかわからないでいた。
 
一緒にいたお仕事仲間が「料理ってレシピ通り作ったらみんながみんな同じ味が出せるものなんですか?ミュージシャンはCDを売りまくるけど、それでもやっぱりLIVEに来てもらって感じるものは違うと思うんですよね。」と説明してくれて、冒頭の話を思い出して私も彼女もすごく納得した。
 
あっという間に過ぎ去っていく時間の中で”記憶になるもの”は、その一瞬が五感全てに響きかけていて、”かけがえのない時間として心に刺さったもの”だろう。料理なら、どこで、誰と、どんな雰囲気や気持ちで、いつ食べるのかで同じものを食べても全く違う味や印象になる。

イヤなことがあった日、むしゃくしゃしながらコンビニで買って帰って1人で食べるカップヌードルほど後から後悔するものはないと思う一方で、事前にスーパーで買って大好きな人と山に登ってその山頂でバーナーに火をつけてお湯を湧かして食べるカップヌードルほど美味しいものもなかなかないと思う。

人の五感なんてそんなもので、条件次第で1つ2つの感覚値は簡単にほかの感覚によって凌駕される。感覚値が多少なりとも誤作動を起こしてこそ、記録は記憶になれるのかもしれない。
 
私の文章はこうしてPCやスマホの画面にドットの集合で表示されて、その中身はビットとかバイトとかなんだかそんなデータで記録されたものでしかない。システムがバグればあっという間に消えてしまう記録だ。
 
でも、私のブログを読んでくれた方から「感動しました」「良かった」「文章が好き」と言ってもらい、恥ずかしくて嬉しかった記憶は一生消えないと思う。