「女子力」と戦うエッセイ

行き場のない言葉たち

tullysatRoppongi

言葉が彷徨い続ける、私の中で。生まれても消えることもできず、どこかに出ていくでもなく、ただただ、出口を探し、他の言葉にぶつかってはまた押し出されるようにして私の中で強まったり弱まったりと彷徨い続ける。いずれ何かをきっかけに新しく生まれた言葉たちによって生き残るスペースを失った古い言葉たちは少しずつ少しずつその言葉に対する想いが薄まるのに連れて私の中からも消えていく。

子供の頃、私の中で生まれた言葉たちには行き場がなかった。それらが陽の目を見るようになったのは「文字」という表現方法を私が身につけた時からだったように思う。

目的がないコミュニケーションをとるのが苦手だと最初に気づいたのは中学生の頃だった。女の子同士のとりとめもない会話が苦手で、自分のことを話さない私を「陽子は秘密主義者だから」と仲間はずれにする女の子もいた。秘密主義だったわけではなく、単に私は怖かった。自分が考えていることを人に伝えるのが。

大人になるに連れて「目的のあるコミュニケーション」が増えてきて、殊仕事における「任務を遂行する」という目的下でおこなわれるコミュニケーションにおいては、安心のほうが大きかった。感情や気持ちを求められることはなく、論理的に、経験から求められるものに答えを出すことはそう難しいことではなく、それどころかそのスキルは高いほうだとも思う。

どんなに仕事でのスキルが高まったところで、とりとめもない会話を楽しみ、計算ではない言葉を投げ、意見や感情を求められるのは苦痛でしかなかった。だから私は飲み会にも行かない。「カラオケで何歌うの?」も「どんな本読むの?」も「好きな曲何?」も全部、私にとっては「こう答えるとこう思われる」の計算が先に働く心理ゲームみたいなものだから。

人生の中で、「この人なら私の中に溜まっていく言葉を伝えてもいいかもしれない」と思う相手に出会えることもある。

それはそれは私にとっては大切な存在で、それが恋だと言われればそうなのかもしれないけど、男女関係なく同じように思うし、もっと「人として」のその人に惹かれ尊敬しその器に甘えたいと思っているほうが近い。「この人なら、私のこと、わかってくれるかも」そう思えたら、ほんの少し私の中にある言葉を見せてみる。私にとっては「会話」は慣れていないコミュニケーションツールなので、PCに不慣れな子が文字を打つように、私が語る真意のある言葉はたどたどしく、時に相手が待ちきれなくて話しはじめてしまうこともある。

それでも、普段語らない言葉をチラッと見せた時、「kayaちゃんのことがちょっとわかって嬉しい」そう思ってもらえることが多い。

私は気を許してもう少し見せてみる。まだ大丈夫。もう少し。もう少し。もう少し。まだ大丈夫。

そうして確認を重ねていくと気づけば随分いろんな想いを見せていて、私の中に生まれる言葉は外に出るという方法で行き場を見つけて嬉しそうに誰かの中に入っていく。自分の中で生まれた感情や言葉を受け止めてくれる相手がいること、ただそれだけが嬉しくて、もはや私は何かを計算するということはなく、ただ安心してそこにいる。

ただ、ある日ふと気づく。そこを安住の地として甘えきってしまっていたことに。

先日、私の中では特に深い意味を持たない、冗談交じりの会話をしている中で、相手を怒らせてしまった。「私はただ、普通に仲良くしたいだけなのに、なんでそうなるかなー?」と聞いたら「いつもおまえの考え方が変だからだ」とバッサリと言われた。

「あー、そうか、そうなのか。やっぱり私が変なのか」と、突然の衝撃によって生まれた悲しい言葉は私の中を占拠して涙が溢れた。

「黙ってれば可愛いのに」とは確かに事実で、私はしゃべればしゃべるほど大切な関係を壊してしまうのかもしれない。「わかって欲しい」の想いが強すぎるのかもしれないし、当たり前のコミュニケーションが下手なだけかもしれないし、此度言われた通り考え方が変なのかもしれない。

ただ1つわかるのは、黙っていれば何も起きないし、揉めない。

もう一層のこと、何も話さないほうがイイんじゃないかと思って、ぐっと言葉を飲み込む。そうしてまた、私の中に溜まった言葉はどこにも行けず私の中でぐるぐると彷徨い続ける。

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とか、書くけど、実際の私にはちゃんと言葉を受け止めてくれる人がたくさんたくさんいるので心配しないでください。