「書くこと」を考えるエッセイ

「好きなこと」が「意味があること」につながった日

2010年の1月、ヨガのメディアを運営する会社で働く事になった時、約半年間、毎日7〜10本のニュースやコンテンツ記事を書いた。そこでとりあえず「なんでもいいから書く」という力が身についた。

その後、フリーランスのライターとして活動するようになって、「○○な方法4つ」といったHow toものの記事を約半年で500本ほど書いた。もちろんその中には、今振り返りたくない記事もたくさんあるけれど、そこまでやってみてわかったことは「私が書きたいのはHow toの記事ではない」ということだった。

やってみなきゃわからないから、これはこれで良い経験をさせてもらったと思う。
 
私がイキイキ書けるもの、書きたい記事は、「自分が学んだこと、経験したことを通して感じたこと」だと気づいた。私が書きたいのは「エッセイ」と言われる類に近いものだけれど、「有名人でもない私のエッセイ…誰が読みたい?」と考え出すと、それを書くことで誰にどう役に立つのかわからなくて、書く意味がわからないでいた。

私は何者でもなくて、仕事はすごく好きで割とできるほうだとは思うけれど、何かを成し遂げたわけでも、社長でも有名人でもなんでもない。自慢できるような人生でもないし、語れるほどのものはそんなにない。
 
それでも、最近、また「やっぱり書く仕事を増やしたい」と想う気持ちが消えない中で、1つ気づいたことがある。

5年ほど前に、ヨガのイベントレポートをした時、その後別のイベントで見知らぬかたに「kayaさんですか?私あのレポート読みました!感動しました!!ぜひ一度お会いしたかったんです!」と言ってもらい、恥ずかしくなったことがある。同じレポートを読んだヨガを全くしない友達から「kayaのレポート読んでヨガ、してみたくなった」と言ってもらった。

その時には「嬉しいな」と思う程度だったけれど、私が文章を書く意味は「誰かに何かを思い出してもらうこと、考えてもらうこと」にあるんだと最近思うようになった。

私は幸か不幸か、ちょっとだけ稀有な人生を歩んで来て、今ここに至る。成功者でも社長さんでも有名人でもない私から「何かを学んでもらうこと」はないかもしれない。それでも「きっかけ」にはなれると思う。
 
昔「kayaは感受性が高すぎる」と言われたことがある。それが良くもあるけど悪くもあると。

大好きな人生の先輩が「嬉しすぎることもないけれど、悲しいこともない毎日だけど幸せよ」と言っていたけれど、残念ながら私はそんな風には作られていなくて、自分でも疲れるほど私の心はいつも忙しくてジェットコースターみたい。

それを活かすことができるとしたら、誰もが見落としてしまいそうなほんの小さな心の動きに気づいて、それを伝えることでほんの少し、誰かの人生にスパイスをふりかけることなんだろう。

「好きなこと」である「書くこと」が、誰かの人生の幅を広げてちょっと豊かにすることができるなら、それで十分私が書く意味はある。